相手を理解するという事

他人のことを理解することはとても難しいと思う。

例えどんなに付き合いの長い友人や血の繋がりのある家族だとしても、それら全ては他人であり、その心情を自由に覗き見ることはできないからだ。
その人の言動や表情、その場の状況を踏まえて、ようやく少しずつ見えてくるもので、何のヒントもなく魔法のように分かるものではない。

ただ、社会で働く上では、そのような泣き言を言っていられない。
読み取るのが難しいからといって、何かある度に一つ一つ確認をしていてはコミュニケーションのコストが膨大になってしまうし、逆に確認をとらずに誤って理解したまま物事を進めてしまうと、取り返しのつかない失敗に繋がってしまう。

そして、組織に属する以上は、全てにおいて結果や効率が重視される。
もしコミュニケーション以外の面で同程度の能力の人材がいれば、よりコストの掛からない方を選ぶし、リスクの少ないメンバーが選ばれる。どちらも当然だ。

なにもコストや成果の話ばかりではない。
共に歩む仲間がいるのであれば、誰しもその相手とは気持ちよく付き合っていきたいものだ。何事も嘘偽りなく腹を割って話せたり、自分の言うことや気持ちを分かり合ってくれたりする相手と歩んでいきたいはずだ。そういった人材こそ、全幅の信頼をおいて仕事を任せられることになる。

相手から信頼を得られるためには、相手を理解することが必要だ。
相手の言葉を理解するには、その言葉に至るまでの経緯や背景を踏まえて、真意をくみとる必要がある。時には言葉通りに受け取ってはいけない場合もあるが、それもまた相手を思えば正しく理解できるはずだ。

とどのつまり、自分が相手を理解するためにするべき努力を怠っているのではないか、と思えてきた。

相手を理解するということは、相手のために自分が出来ることを何かしようという第一歩だ。相手の気持ちを考え、その結果なにか他の行動を起こしたり、自分の考えについて思い直したりしてみる。理解はその第一歩にあたる。

相手を理解することは難しい。
とはいえ、それを放棄してはいけない。
そんな魔法はないし、みな等しく陰で思い悩んでいるはずだ。
努力がコストやリスク軽減、効率化に繋がれば喜ばしいが、はじめからベストを望むのは贅沢だし、第一歩の理由はそこではない。
共に同じ道へ進む仲間たちと、少しでも気持ちよく歩んでいくために、こちらが努力の手を止めてはいけない。
理解は努力の成果であり、思いやりの結晶のはずなのだ。

少しでも思いやりのある人間になれるよう努力しようと思う。

こう

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