勇気

私は誰かを叱ることが苦手である。苦手意識がある。

もちろん、上司として部下への注意指導は随時行なっている。
しかし振り返る度、その注意指導が相手にちゃんと伝わっているか、不安に襲われる。
なぜ不安に思うのだろうか?
自分の指導について振り返り、自分なりに分析してみた。

例えば、部下が基本行動を外れた時、言葉として「〜はやめよう」とか「〜は駄目だよね」という表現を一貫して使っている。
そこには以下の問題点が有ると思う。
・問題の種類によって、言葉を使い分けていない。
・まるでアドバイスのような言葉になってしまっている
問題を繰り返させない為に、指導しなくてはいけないと思っているのに、このような[弱い表現]の言葉を使ってしまう。

私は「~はやめろ」「~は駄目だ」といった、断定命令的な表現を無意識に避けてしまっている。
時には断定命令的な表現が必要だ。

私はなぜ、断定命令的な表現を避けてしまうのか。
トップとしては情けないが、社員(相手)に嫌われたくないという気持ちがそうさせていると思う。

だが、私の指導の主目的は社員(相手)を「成長させる」ことだ。
その為なのだから、たとえ一時的に嫌われ、煙たがられても、時には強い言葉で指導を行わなければならない。

いつか、その強い言葉の意味を分かってくれると信じて。

要は指導する相手を信じて、指導の必要を信じて、ただ一歩踏みだす「勇気」を持つべきなのだ。

自分に「勇気」が足りていない。
そう考えると、色々と自分の中で腑に落ちる。
嫌われたり、憎まれたりする事を恐れる自分がよく分かる。
つまり人に影響を与える自分に自信がないのかも知れない。

しかし、社長としてという枕詞を付ければ、また違う覚悟が生まれる。
その覚悟を自覚すれば、自分を信じて勇気を持つ事が出来るかも知れない。

こう分析してみれば、何とかなるような気もしてきた。
先輩からは社員の指導についても経験値というものを言われた。
社長の指示命令、社長の言葉というものは重いものであるが、誰もが最初から最善手を差せる訳ではないと。

またこんな事も言われた。
トップとして覚悟と責任を持って指導指示をしていても、トップも社員に育てられるという事が有ると。

気持ちの持ちようだが、強い意志のコミュニケーションというのは簡単だが、相手と戦うのか、助け合うのか。
強い言葉を使ったとしても、助け合えるならば、私はそれを選びたい。

単に自分の勇気の有り方について分析することによって、また一歩自分の成長に繋げられたかも知れない。
これからも定期的に自分の問題点について内省し、分析し、自分の在り方に活かして行こうと思う。

とも

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