師の言葉 2

京都に総本山がある浄土真宗東本願寺派の法主(ほっす)の次の位を持つ僧侶、要は坊主だが、私は29歳の生意気盛りの頃、その方の講和(法話)を拝聴する機会に恵まれ、私は変わった。
はなから宗教に興味は無い。
先生は(お坊さんでは文章的に進めにくいので)、私の心を見通すように、信じる心が無ければ、仏教であれキリスト教であれ、何も君の役には立たない。と、始めに仰った。
まあ信仰とは何かという話だが。
私は私の宗教観を聞かれ、不敵に「自分教」です。と答えた。
先生は笑って、「それでも良いよ」と諭すように話を始められた。

まずは観世音菩薩のお話。
「これだけは言っておかないとならねぇんだ」と。
「必ず救う」それだけは憶えて帰ってくれと。
「キリスト教なんかでも言うよな。信じる者は救われるってよ」と。
「まあ、同じこった」と。

そして本題に入った。
人は何の為に生まれてきたのか。善を為すか、悪に染まるか。
「善も悪も裏返せば同じようなもんだ。」
「織田信長なんて、比叡山の焼き討ちをして大勢の人間を殺したっぺ。」
「もちろんそれは一方では悪逆非道。しかし一方では悪い坊主どもを誅殺すべきだったのかも知れないな。」と、坊主の身分で。
その行為の是非に様々な意見は有るだろうが、今日の話は何かを為すという事の重要さだと。
何の為に生まれてきたのか。何もしないなら生まれてきた意味は何だという話だ。
善でもなく、悪でもない。その意味は何だと。
先生の話の結論は、人は苦しくとも何かを為すべきだと。
悪でさえ、何も為さぬよりはましだと。
私は耳を疑いながら、先生に聞いた。
今ならもう少しましな質問を出来たと思うが、残念ながら29歳の私は馬鹿だった。
「先生は悪を認めるということですか?」
先生は不出来な生徒を憐れむように、「悪は悪だよ。」と。
しかし、「生まれたからには『沈香も焚かずば屁もひらず』が、人として悪である。」と力強く仰った。
私は眼から鱗が落ちたように、何かを理解した。
それから『回向』の意味や『人生を楽しめ』というありがたいお話を拝聴した。
最後に私が愛読していた漫画の決め台詞、「天網恢恢疎にして漏らさず」の意味を議論した。
これは老子の言葉とされ、天は一見粗い目の網でも悪は決して見逃さないと意味で漫画内では使われていたが、私は悪に染まりそうな人が居たら、始めから救えば良いと思うと言うと、先生はまた楽しそうに笑って、「つまり救う」と言って、救いの意味を説かれた。

禍福は糾える縄の如しとか、塞翁が馬などと人の営みを比喩する言葉は多々有るが、先生の言葉はそのどれとも違った。
が、私には一番腑に落ちた。
心の問題など、一見難解な課題は有るように見えるが、先生の言葉を聞いていると、「いいからやっちまえよ」と聞こえて、ただしその是非はお前さんの心次第と言われたように思った。
『必ず救う』
それはそれを願う方の姿勢次第なのではないか。
私も生まれてきたからには何かを為すことを目指していこう。
先ずはダイエットに心掛けて、「しろくま」を買ってきて。

しかし、あの先生にはオーラというか、迫力があったなぁ。
ありがとうございました。

ゆう

コラム一覧へ戻る
採用情報