理想的な成長とは、一体どのようなものだろうか。
つい最近まで、成長の階段を着実に一歩一歩上ることが大切なのではないか、程度の理解でしかなかった。
業務で様々な経験を積んだり、知識を見聞きしたりすることが成長なのではないかと思っていた。
確かに異なる現場で異なるソースコードを目にすることは、多少見識を広めるかもしれない。
ただ、その中身は真に理解しない限り、目に見える成長には繋がらない。
更に言えば、それは誰しもが常日頃から当たり前のように行っていることであり、
こんなものは「理想的」とは程遠いものなのだろう。
「新しい技術に興味があります」や「成長したいと思っています」と言うのは簡単だ。
しかし、実際にそれらの言葉を行動に移すことは簡単なことではない。
そして重要なのは、その行動を一朝一夕ではなく継続することが大事なのだろう。
とはいえ、始めから自分に高い目標を作って、及び腰となってしまっても仕方ない。
一人で勝手にゴールを遠くして、叶わない夢を追い続ける必要はきっとないのだ。
尊敬する人が居たとしても、自分自身がその人になるのではなく、
その人と同じような高みへ行こうと思う気持ちが大事なのだと思う。
重要なのは、ゴールをどこへ置くのかではなく、常に前を向き続けること、只一点なのかもしれない。
誰にでも当てはまる「理想的」と呼べるシナリオはない。
常に向き合うべきは自分だけなのだから、成長の仕方は十人十色となってくるはずだ。
今の自分が昨日の自分よりも1mmでも成長できていることが重要なのだろう。
だから、自分の成長を他人と比べて一喜一憂することに意味はない。
自分よりも優れている技術者に対して妬みといったネガティブな感情を持つ必要はない。
自分よりも劣っている技術者を見つけて安堵している場合ではない。
危機感を抱くべきは、昨日の自分を振り返り、成長が感じられなくなった日なのだろう。
冒頭、成長とは階段を上り続けていくことなのだろう、と思っていた。
これは昨日よりも今日1mmでも成長していることと似ているようにも聞こえる。
しかし、その心構えの意味を理解していなければ、正解とは程遠かった。
理想的な成長とは、自分が成長したいと思う気持ちを持ち続けることだ。
階段を上る行為は、その結果でしかなかったのだ。
ただ漠然と目の前にある階段に足を掛けることとは、意味が異なってくる。
その意味をしっかりと理解して、前を向いて行きたい。
また、階段の上り方にムラがあってもよくないだろう。
毎日誰に言われなくとも階段を一段ずつ丁寧に上り続ける人と、
滅多に自分で歩まず誰かに尻を叩かれてようやく階段を十段駆け上る人。
ひと月で同じ三十段を上ったのだとしても、その価値と評価は大きく異なる。
前者はストイックに上り続け、将来は二段三段と歩みが大きくなっていくかもしれない。
後者は尻を叩いてくれる人がいなくなれば、一段も上らなくなってしまうのか。
後者が、同じ段数を上ったのに何が違うのだ、と抗議することは許されない。
もし正当な評価を求めるのなら「やれば出来る」ではいけないのだ。
自分にも当てはまると思うため、このようなムラを減らしたい。
まだ今の自分は、成長の階段を上り続けることの意味に気付いたばかりだ。
向き合い方や上る速度のムラなど、心構えに関する気付きだけでも山ほどあった。
理想的な成長のスタートラインに立っただけかもしれないが、
これを機に一歩一歩を確かに意識して、歩みを止めないようにしたいと思う。
こう