理想的な教育。それは取りも直さず「人間教育」なのだと私は思う。
どんなに技術に精通していても、どんなに仕事を理解していても、人間としての資質に欠けていたのでは、多分本物を作り上げる事は出来ないのではないか。
技術に精通することも、仕事を理解することも簡単な事ではない。
その上で、本物を作るとは一体なんだろう。
プログラムの開発は、その大部分がデバッグ工程に費やされることは分かっている。
バグの原因は、コーディングミスやアルゴリズムの誤り、
要件定義から詳細設計に至る思想的または構造的な誤り、
適用システムの互換性の認識違い等、様々である。
しかし、連絡や説明伝達の誤りに起因するバグはいつもタチが悪い。
単に思い込みという硬直化した現象が引き起こす問題だと思うが。
ついでに相手と私という余計な切り分けが有ると問題はさらにやっかいになる。
そのような問題を目の前にした時、人間教育をどう受けて来たかが表面化する。
要は、そこで求められるのは人間力である。
それは本質的に誰かにどう教育を受けたかではなく、自分をどう磨いて来たかだ。
つまり理想的な教育とは、過ぎ去る時の中でどのように自分と対峙してきたかに通ずる。
決して技術力、仕事力を軽んじる訳では無いが、それはある程度当たり前の経験や机上の学習でも身に付く。
しかし、優れた人間力は通り一遍の経験や机上の学習だけでは身に付かないような気がする。
自分をどう磨いて来たか。と述べたが、それは人それぞれ歩む道が違うので、過去形だろうと未来形だろうと一様に語る事は出来ない。
ただひとつ言えるとすれば、そこに利己的な考えが有ってはならないと言う事くらいだろうか。
人間は多かれ少なかれ、様々な欲を抱えて生きている。
せめて自分を磨こうとするなら、それらの一切を捨てて然るべきだと考える。
365日自分を磨こうとしても、それはなかなか出来ないのだから。
理想的かは分からないが、私の教育についての持論は、
まず自然体で、自分を大切にする事を教える。だ。
歌の文句ではないが、自分を大切に出来なければ、他人を大切に出来る訳が無い。
強いては、仕事さえ大切に扱う事も出来ないだろう。
形ではなく、本質で。だ。
また、プログラム開発にあたって単純なミスを繰り返す。
1度教えた手順を何度も聞き直さないと憶えられない。
これは理想的な教育に非常に関係が有る。
経験が浅い頃は、誰でも色々なバグを見るはずだ。
教育はそれを咎めるのではなく、見守るのでもない。
突き放して放置するのでもない。
教育する側として管理していくのだ。
教育される側もいつまでも新人の頃の不具合を繰り返さない。
それを管理していく。
そして認めていく。
もちろん叱ったり、教えたり、誉めたりと間には色々有るだろう。
そして教育とは、教育される側の気付きだと教えていく。
私は、それが理想的な教育だと思う。
ゆう