生き方として、
小さな幸せを見つける達人になれと、遠い昔、今でも敬愛してやまない偉いお坊さんに教えていただいた。
人は煩悩の塊のようなものだ。
それは、とても大晦日の百八つの鐘の音でも洗い流せないだろう。
小さな幸せとか、足るを知るとか、言い方、考え方は夫々あるだろう。
東本願寺の法主であられた恩師から本当に良いことを教わったと思う。
しかし、本来の私は子供の頃から興味のある事にのみ心踊らせ、興味の赴くままに生きてきたような気がする。
とても恩師の教えを理解出来し、実行出来る人間では無かった。
小さな幸せを捉える事の意味は分かったが、小さな幸せに拘り過ぎたのか、
最近、自らの心に『ココロオドル』を感じていない事に気付き、焦りのようなものとともに、そんな徒然を思うようになった。
それでも私はありきたりに歳のせいなどとは死んでも思わない。
たとえもうすぐ65歳のくそジジイになろうとも、バドミントンで躓いて、アチコチを打撲して手の平や膝の回復が儘ならないとしても。
いつまでも内面に心踊るエネルギーを保ち続けていたい。
幼い日
地元の祭り囃子を聞いただけで小さな身体の中でマグマが沸騰するような感覚を覚えた。それは、恥ずかしながら小学校の高学年でやっとコントロール出来るようになった記憶が有る。
ただ同時に、その心躍る感覚は私にとって実は大切なものだろうとも感じていた。
モチベーション。
いや、もっと元気の素のような。
今風に言えばアドレナリンの発露だろうか。
現状は自らスイッチを入れないと『ココロオドル』状態が現れない。
どこかアンテナの感度でも鈍ったのかなぁ。
まあ、様子を見てブラッシュアップでもしようかな。
わくわく。
ゆう