高校時代、三年間続けて学級委員をやらされた。
理由は偶々入試の結果が二番目だったという曖昧なもので、だからと言って三年間ずっとと言うのは今更ながら如何なものかと思っている。
クラスメートには教師や学校サイドとの距離を挙げて羨み妬む者もいた。内申書成績も気になっていたのかな。
母校は、かつては県内二位の進学校であった。進学のターゲットは勿論東大合格。
そういう意味で現在は県内四~六位くらいに甘んじているはず。
同時に剣道部のキャプテンも一年生から三年間、勤めさせられた。
同校剣道部には入学前の春休みから練習に参加していて、ある日、20数名の部員の総当りの試合が行われ、優勝した者がキャプテンということになった。
私は入学後、それまで三時間くらいの練習をしていた部活動を一時間で終わらせると決めた。もちろん合宿は辛くとも楽しいので夏、冬(剣道独特かも知れない)の合宿はそのままに、土日の練習はあっさり無くした。
自分で出来る練習は自分でやってくれという事で。
文句が有るなら、私に勝ってから言ってくださいと。
今振り返っても、背中に冷や汗が流れるほど生意気でした。
ただし、学級委員の方は少し意味合いが違っていた。
一年次のみ一年間頑張って放免されるものと思っていたから、二年生になってもなかなか新しい学級委員の指名や生徒互選の選挙みたいなものが無いので、先生(三年間ずっと担任を担当)に詰め寄ってみたところ、
鶏頭牛後の話で煙に巻かれた。
曰く、鶏頭となるも、牛後となるなかれ。と、英語の教師のくせに。
私はすぐにメリットとデメリットを天秤に掛けた。
結果、隠れ蓑として、いや、学校側の情報取得のスピードと、生徒たちに一目置かれる立場をフルに発揮して楽しい学校生活を送ろうと、考え方を切り替えた。
確かに、大きな組織や企業の末端で経験する事と、小さくとも組織としての仕組みの中でトップとしてそれを仕切り、支え、運営する経験は、自身の成長になによりだと理解出来た。
そう思って振り返ってみると、クラスには進学校なのに市内のヤンチャを纏める極ヤンチャが居たり、親から東大合格を厳命されている政治家や医者の息子たちが居たり、熱く甲子園を目指す野球部の坊主頭が居たり、なんと楽しいクラスではないか。
私は決めた。
母校は昭和50年代初めに服装を私服可とした県内では進んだところが有り、生徒(田舎のあんちゃん)達は、ファッション雑誌を切り抜いたような服をまとい、急に色気づき、大人びていったが、剣道部は部長の指示で試合に参加する時は学生服着用とされていた。
私は自然になびかせていた髪を、あえてキチンとした横分けにし、用も無いのに学生服を着用し、真面目です。という感じで卒業まで過ごそうと。
私は帰宅途上にある県北所在の高校を自由に出入りしていた。
目的は剣道部の練習に途中参加する為。
また他校の先生方がいらっしゃる職員室や宿直室で先生方と話をするのが好きだった。何故か先生方は高校生の私を保護者かPTAのように扱っていたところが有って、面白かった。まあまあ様々な情報を取得出来たりして。
なるほど学級委員という肩書は分かりやすいよね。
あれから時代も変わった。
幸せの価値とか、働く意味とか、家族と人生とか。
本当にそうだろうか?
私には言い訳じみて聞こえる。
例え鶏頭でも始めから目指す事なく、何かを分かったように言われると、色々と違和感がある。
一部分、一場面しか覗かず、何も分からずに幸せの価値や人生を語るなと言いたい。
変化を恐れ、時間を浪費し、澱みとなって腐っていくのは何より簡単だ。
人生は長い。これで良いと思っても、そのままを続けることが非常に困難な事なのは火を見るよりも明らかなのだから、
だから成長への挑戦や努力こそが何より大切だと思う。
要は変化への対応ということだ。
私達がこの世に生まれた事自体が奇跡の為せる業なのだから。
別に鶏頭や牛頭じゃなくとも、自分として生まれた自分を、どこまで素晴らしい自分に出来るのか、試す価値は絶対にあるはずだと私は思う。
ゆう