何事も基本は大切。
私は学生時代に剣道部に所属しており、剣道の稽古(練習)も様々な修練方法があるが、私が一番大切にしていたものは「素振り」だった。
高校三年生の春。同じクラスの友人は野球部で頑張っていた。
私の母校は公立であるが、当時の野球部は常に甲子園を目指していた。実際に何度か甲子園で勝利した実績もある。
剣道部は効率重視で毎日の部活練習は、必ず60分でやりきる。そういう方針だった。
私が剣道部の練習を終え、部室で着替えて、ふとグランドを見ると、その野球部のクラスメートが、一生懸命に素振りをしていた。
バックネット横の金網に向かって、金網に触らないようにコンパクトな素振りを汗にまみれて繰り返していた。
私は部室から玄関への渡り廊下で、彼に声を掛けた。
「内角の対応か」
「うん」
しばらく見ていた。
「それは実際の試合で役に立つのか?」
「その為にやっている。」
またしばらく見ていた。
「それじぁあ駄目だな」
「うっせえな。何が駄目なんだよ」
「実際の試合では、気持ちがものを言うからな」
「何それ」
「気持ちの無い素振りは、ただの筋肉運動だと思うよ」
「……」
「どうすれば良いの?」
私が剣道部で市・県・関東を制し、全国を目指している事を、その友人は知っていたので、素振りについて剣道と野球の違いは有るが、何かしら得る物が有るかも知れないと、友人はスイングを止めて私の方に歩いてきた。
「ついてこいよ」
私は友人を連れて、校舎の一階玄関の方に向かった。
校長先生が丹精込めている花壇の辺りまで来ると、外の方から校長室の窓を見てみた。
灯りは消えている。
で、金網に対峙して40㎝のところでやっていた素振りを、校長室の窓のガラスサッシに向かってやってみろと。
最初友人は「アホか」と帰ろうとしたが、
「本気の素振りをやってみろよ」と言うと。
友人の足が止まった。
しばらく私を見ていたが、やがて校長室のガラスサッシの前に友人は立った。
構えた。
「それじゃあ60㎝くらい有るよ。ベース際に立って内角球を誘って、レフト線に二塁打を打ちたいんだろ。40㎝でやらないと意味がねぇよ。」
彼が私を睨む。
「それが本気の素振りなんじぇねぇの。金網の前で100回の素振りをするよりも、気合の入った本物のスイングがお前のものになるんじゃねぇの」
彼は一旦60㎝の距離でおそるおそる二三回軽く素振りをした。
そして、ゴクリと唾を飲むと、40㎝の間隔でスタンスを取った。
「やるなら本気でやれよ。応援団や観客の前で向かってくる内角ストレートをレフト線に弾き返せ。」
「よーし」
ガチャーンっという盛大な音と共に、私は玄関へ向かってダッシュしていた。
暫くして宿直の先生が「コラーっ」と飛び出してきた。
後で聞いた話だが、野球部の監督、部長、宿直の体育担当の先生が集合して大騒ぎだったらしい。
次の日に隣のクラスの野球部のキャプテンから話は聞いた。
そして友人に、「素振り。何か会得したか?」と聞いた。
友人は押し殺した声で、ただ「うるせえ」とだけ言った。
野球部のキャプテンからは、「コラコラ、虐めんなよ」と言われた。
春の県大会が終わって、彼は準決勝の試合で、内角を攻めて来たストレートをレフト線に弾き返し、二塁打を放った。
決勝で敗れた後、教室で彼と話した。
「あの時、お前の眼の前に有ったのは、金網か、窓ガラスか?」
「うん。あの時、気持ちという意味が何となく分かった気がした。
一生懸命内角打ちを練習したけど、試合になると緊張して力を発揮できない。
それで、あの校長室の窓ガラスを綺麗に割ってしまった時のギリギリの緊張を思い出したら、急に力が抜けて、力まずにコンパクトにバットが出たのよ。」
「うんうん」
「素振りって奥が深いな、お前は剣道で何を考えて素振りをしているの?」
「中学の習い始めは部内で一番弱かったから、ただただ人一倍回数をこなして基礎体力を付けようと思った。そしていつか体力が付いて素振りの形にも自信が付いたら、一回の素振りで百回分の効果を考えるようになった。今は数回の素振りで練習の殆どをカバーするくらいの体力を使えるようになった」
「どうやって?」
「簡単に言えばシュミレーションだけど、多分それだけじゃない。竹刀でも木刀でも振りかぶってから、ゆっくりと全身の力を込めて素振りをしている。途中に障害物が有ってもそれを切るつもりで、相手の面を切って上半身から下半身まで真っ二つにするつもりで、それを地面近くまでゆっくりと振り下げるのが俺の素振りだ。」
「多分それだけじゃない。というのは?」
「説明しにくいけど、素振りの途中で外から力が加わっても、打たれても、一旦素振りを始めたら眼の前の相手を切り下げるまで動じない。かな」
「なるほどね」
彼はひとつ大きく息をついて、こう言った。
「校長室の窓のガラスサッシの弁償代。半分出せよ」
「えーーー、極意を教えてやったのにーーー」
「うっせぇっ、明日までに5,000円な。ダッシュで逃げやがって」
ああ、今日はアルバイトだなー。
部活が終わったら、アルバイトの為に早く帰ろうと考える友達思いの私だった。
ゆう