忘却曲線

高校1年の春、「忘却曲線」について教わった。
教頭先生から教えていただいた事はいまだに忘れない。

当時、校長先生が私の祖父くらいのお歳だったが、教頭先生は曾祖父ぐらいに見えた。
実際に見た目だけではなく、いったいあの頃の公務員の定年制度はどうなっていたのかと疑うほど、教頭先生はお歳を召されていたと思う。

教頭先生は、物理と数Ⅲの先生でもあったが、通常の授業で担当教師が不在の場合、臨時で教壇に立たれる事がそれなりに有った。

私達が「今日は担当教師が不在なので自習かな…」と思っていると、教頭先生が「さぁやるよー」とニコニコと手揉みをしながら現れる。
しかも、その授業枠が理数でなくとも、教頭先生はご自身がやりたい授業をおやりになる。

私はたまたま学級委員だったので、授業の前に必ず担当教師を職員室へ呼びに行くのだが、担任の先生や学科の先生から何らかの事情で、「今日は自習にしなさい」と言われても、
教頭先生は来る。

教頭先生は長身痩躯で颯爽としておられ、いつも洗いたての白衣を纏って風のようにスルスルと廊下をお歩きになられる。
潔く禿げ上がったご自身の額を「いけねぇ!」と言いながら、ピシャリと叩くのが癖だ。常に柔和で穏やかな表情ながら、ところどころで江戸っ子の風情を感じさせる。
教頭先生は理系のご出身だが、若い頃に果たせなかった電子工学にご執心とのことで、電子工作クラブの顧問としてもご活躍されていた。

私は自分の所属部活が有るにもかかわらず、何度か電子工作クラブの活動を覗きに行った。というよりも教頭先生を見に行った。

教頭先生は、理科室の横に特別な教室を自前でお作りになっていて、電子工作クラブはそこで活動していた。

教頭先生がお作りになった教室は、個別に板で仕切られた40席があり、席の前方にはアナログなボタンやランプが設置されていた。
私達は時々、その教室で教頭先生の授業を受けさせていただいた。
半世紀近く前に、OHPに問題や解説を投射し、直接書き込みをし、教頭先生はそれらを使いこなしていた。
もちろん、課題の回答は席にある数個のボタンから選択して押すことになり、私達の回答内容を、教頭先生は自席のパイロットランプで確認するのだ。

回答に迷っていると、「おいおい〇〇くん、ゆっくりだね~」と尻を叩かれる。
全員が正解ボタンを押すと、教頭先生はパイロットランプを見ながら、「美しいねー」とニコニコされる。

電流が流れる電線の周りに発生する磁気の磁束密度を求める計算式など、今はもう定かではないが、当時は教科書に書いてある計算式は全て暗記してやろうと集中していたのは、教頭先生を喜ばせたいという理由も有ったかも知れない。

ある日、授業の終わりに教頭先生が「忘却曲線」について教えてくれた。

学問などは学んだ次の瞬間から忘却が始まるという話で、
10%から20%の忘却率進行のポイントで何らかのアプローチをすれば、忘却率の進行を各段に抑える事が出来、忘却曲線を緩やかにすることが可能だと。
もちろん何らかのアプローチは簡単には復習ということだが、
教頭先生は、その復習についても四角四面に考えるなと。
ほんの数秒、眺めるだけのアプローチでも良いのだと教えてくれた。

忘却率の進行に抗い、それを何度か繰り返すことで忘却曲線に打ち勝ち、どんな苦手なものでも「記憶の定着」が期待出来ると。

記憶の定着とは、記憶の引出し(脳のROM)に仕舞っておくことだと。
そうなれば、必要な時に目的の記憶を引出しから見つける事を上手に行うだけだと。

最近の私は記憶の引出しがガタピシして、確かに憶えた自覚が有っても、どの引出しだったかを忘れることが多いのだが…。

教頭先生から教わった事で、今もありがたく実践していることが他にも有る。

クラスメートが分厚い参考書を抱えて授業に参加した時、そんな本の読み方について。
先ずその本の「目次」をしっかり読みなさいと。
目次を全部読みながら、目次の意味を考えなさいと。

教頭先生は、正しく目次を読めれば、もうその本を80%から90%は理解したも同然だと。
思い切った事を仰られるなと思いながら、特に自然科学や工学技術系の本は、確かに構成であるとか、項目・用語を目次に予め見出す事で、その本の内容が読む前に頭の中に展開されるような気がした。

教頭先生が現在の電子工学の進歩の、PCやスマホ、そして何よりも本格的なテレビ電話(Zoom etc.)をご覧になったら何と言うだろう。
しかし、ソフト面としての教育の現状を見たら、
おそらく、「なっちゃあ いねぇなー」、「下手」と。切り捨てるような気がする。

教頭先生は電子工学の進歩に憧れながら、その前に人間というものをよく理解されていたのだと思う。
校長先生も片手であしらい、若手教師の尻を叩き、ベテラン教師に恐れられ、生徒には限りなく優しかった。

RCサクセション(忌野清志郎)の『僕の好きな先生』という曲を聞く度に、教頭先生の笑っているお顔を思い出す。

ゆう

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