太平洋を臨む海岸通り。国道6号を南に向かい愛車を走らせる。お気に入りの曲を聴きながら、運転席に肘を掛け右手に缶コーヒーを持ちショートホープを手挟んで。
風に乗って海の香りが運転席まで届く。なんと気持ちの良い日曜日だ。
私は1か月振りに実家に戻り、当たり前のように母の朝ごはんを食べて少しゴロゴロと過ごした後、先輩との約束の時間に間に合うように愛車を走らせていた。
その頃はまだ高速道路も出来ておらず、国道6号は茨城県北部の大動脈とでも言うべき存在の主要道路だった。
もちろんそこを生活圏にしている者にとっては、国道の裏道は当然在って、私達はその裏道の裏道のその抜け道まで知っていた。
直線的な国道に対して裏道は海際ギリギリだったり、山道の先の見えないワインディングロードだったりするが、時間にして平均40分ほどかかる日立駅から私の実家までの距離を、私が最速の記録を出したのは山道のコースでのことだった。
大学生の時、交差点の黄色信号に進入しようとして、急に懐中電灯で進路を防ぎとめられ、咄嗟にエンジンブレーキをかけながら、クルマの姿勢を保つ為にフットブレーキとサイドブレーキを操作した。
お巡りさんが、「おいおいラリーでもやってんのかよー」と顔をクルマに突っ込んできた。
「いえいえ、たまたまアルバイトに遅れそうなところに目の前の信号が黄色に変わりそうだったので」
懐中電灯で乱暴に私の顔を照らしながら、免許証を求める。
「気を付けて行きなさい」とその時はすぐに解放してくれた。それ以降、山道の交差点にお巡りさん有りと頭に入れて、それに気を付けるようになった。
40年前のその日、先輩との待ち合わせは日立市内の「珈琲野郎」という喫茶店。
美味しいワッフルを御馳走するという言葉だけで、私は簡単に愛車を走らせている。
先輩曰く、珈琲野郎のマスターは若く、何度も先輩と喧嘩をしている馬鹿な奴とのこと。
何故、お金を払ってまでそんな所に行くのか、先輩には先輩の考えが有ると思い、私はそれ以上考えないようにしていた。
コインパーキングに愛車を入れると、私は珈琲野郎のドアを開けた。
カランコロンという当時の喫茶店特有の音が鳴り、店内に進むとカウンターに先輩が居た。どうしてわざわざ後ろのテーブル席ではなく、そりの合わないマスターの真ん前に先輩が居るのか。もちろん私は考えないようにした。
先輩は笑顔で私を迎えてくれ、手招きして4人掛けのテーブルへと私を促した。
奥にあるテーブルにはとても綺麗な女性がひとり、にこやかに私に会釈をしている。
私もペコリと頭を下げて、「どういうこと?」と思ったが、そのまま先輩とその女性が並んで座る正面に腰を下ろした。
すぐに、珈琲と美味しそうなワッフルがクリームと蜂蜜とバターを添えて私の前に並べられた。先輩は「温かいうちに食べな」と。
しかし、私は先輩とその女性の顔を行ったり来たり見ているだけ。
その女性は先輩の高校時代からの彼女であり、結婚の約束をしているのだという。
先輩にとって、私が非常に面白い存在で、彼女との会話に私が度々現れるのでその彼女が私を紹介しろと言ったらしい。
2人はまるで既に結婚しているような堂に入った雰囲気だった。
その時の先輩は、会社では数多いる女性たちから目の敵にされていた。
自然と男性社員も仲の良い一部の者を除いて、同調というか、触らぬ神に祟りなし状態で先輩を見ていた。私は何故か先輩と気が合って、というか先輩の開発能力や表現のセンス、考え方の新しさに憧れながら嫉妬して先輩に纏わり付いていた。
先輩は美人の誉れ高い課長秘書にも、彼女がちょっと躓いただけで、すかさず「気を付けて。化粧にヒビが入っちゃうよ」などと極悪な事を言う。
その積み重ねで女性陣から目の敵という訳だ。
もちろん先輩には何の反省も無い。特に反撃や被害も無いと考えている風だった。
先輩は4歳ほど下の私を何故か弟のように思ってくれており、
誰にも見せないという、これまでの業務を通じて学んだ技術やノウハウを出来る限り記録(仕事の手順をオブジェクトとしてまとめ、効率的な順番を→で結んでいた)したノートを私だけに見せてくれた。とりわけ眼を引くのは周りから優秀と目される先輩の、自分に対する駄目出しとも叱咤激励とも取れる『振り返り』、つまり反省の箇所だった。
それだけで私は先輩の凄さを思い知らされ、目標とすることを決心した。
それこそ業界でも名の知れた優秀な方や出来る先輩方は何人もいたが。
ともあれ先輩は私を可愛がってくれ、私は先輩を慕った。
今でもその思いは変わらない。
珈琲野郎で、先輩と彼女の出会いや家族の事など色々と教えていただきながら、おふたりの将来設計も自分自身の参考として伺うことが出来た。
で、私は先輩の職場における悪行三昧を彼女に言い付けた。
本来、清廉で男らしい性格の先輩が、己の能力やセンスを笠に着て女性たちの存在を甘く見ているとまくし立てた。
それまで美しく優しい女性の代表のような顔をしていた先輩の彼女の眉間に皺が寄り、先輩をキッと睨み付けた。
先輩は私に一瞬「この野郎」と眼を向けたが、それさえも彼女の「アンタ何やってんの」というオーラに飲み込まれた。
次の瞬間、先輩の彼女は柔和な表情に戻り、先輩に対して「うん?」と優しく、しかし確実に問い詰める言葉を吐いた。
先輩は「いや、あの、いや、あれ…」と言葉に詰まる。
私は即座に下を向き深刻な顔をして、心の中で「うっきー」と勝利のファイヤーダンスを踊る。
先輩の出来た彼女「ごめんね。ゆうちゃんにも嫌な思いをさせてるよね」
おお、初対面でゆうちゃん。
「いいえ、僕は先輩が好きなので、ちょっと心配なだけです」
はい、また彼女の眉間に皺。下から見上げるように先輩を睨みます。
太鼓の音が心に響く。ファイヤーダンスが止まらない。
逃げ場の無い先輩。
「うー。わかりました。今後は本当に気を付けます」
眼を細め先輩の表情を伺う彼女。
怖ぇぇぇぇぇ。
「とりあえず、〇〇さんと△△さんには、ちゃんと謝りなさい」
ぐわぁぁぁぁぁぁ。厳しい。
「どう謝るの?」と彼女。
「……」と死にそうな先輩。
ひぃぃぃぃぃぃぃ。俺も逃げたい。
急に私に顔を向ける先輩の彼女。
「ゆうちゃん」
「はい!!!!!!!!!!」
「申し訳ないけど、この人を少し助けてやって」
「はい? はい!!!!!!!!!!」
「今日はわざわざありがとうね。 あっ。 ゆうちゃんの彼女は?」
「はい。おりません!!!!!!!!!!」
で、やっと先輩が生き返って、「ゆうちゃんは社内でも皆に狙われているよ」と。
彼女が話を合わせて「うんうん。彼女が出来たら私達にも紹介してね」と。
「はい、是非宜しくお願い致します!!!!!!!!!!」と私。
この時まで私は、私の性格的からして、しっかりした年上の女性とのお付き合いを密かに考えていたが、この日を境にその考えを変えた。
愛車を運転しながら、私は先輩に対して彼女に言い付けるという非常に優れた武器を手にしたなと思いながら、先輩と彼女の事を想い、とてもお似合いの素敵な2人だなと嬉しい幸せな気分になっていた。
もし携帯電話が有る時代ならば、先輩から鬼のように着信が有った事だろうが、その時代は、次に会うまでの時間が頭を冷やしてくれる。
月曜の朝、職場で会った時、先輩は照れたような笑顔だった。
私は考え事をする時に愛車を走らせ、好きな音楽を聴きながら、右手に缶コーヒーを持ちショートホープを手挟んで、自分の世界に浸るのが好きだった。
その日、私は日立市内の寮には戻らず、2つ離れた市にある実家へ帰ることにした。
太平洋を望む海岸通り、最も海が近くなる辺りで、海鳴りとともに幾重もの波が海岸に寄せてくる。その様はまるで白いうさぎが波の上を一斉に競争しているようだ。
波頭が崩れ、紛れもなく白く。紛れもなく白いうさぎになる。
幾重にも走り続ける白いうさぎ。
岸に近付くと、やがてそれは消えて海に帰る。
同じ光景を見て、白いうさぎが分かる。
そんな感性を持つ女性を探してみようと。今思えば本当に適当で迂闊な意味不明の私の考えであるが、その時は何かを掴んだ気がして満足しながら愛車を走らせていた私であった。
ゆう