文章の達人たる

文章の達人とは何か。
文章と括らなくとも、我々は母国語である日本語さえ使い熟せているのか。
文章構文の理論構造や表現手法を知悉し、言葉や先端表現も正しく理解して。
そんなことよりも、相手に読ませる文章や言葉を「ちゃんと分かり易く」書けているのか。

人に読ませるものとして最たるものが「手紙」だとして、
以前、何かのTV CMで、手紙に関するこんなものが有った。
かのレオナルドダヴィンチが友人に手紙を書いた。
内容は「?」のみ。
果たして友人からの返事が届いた。
内容は「!」のみ。
それを観て、なんと洒落の効いた手紙で、味のある遣り取りだろうと思った。
「?」 近況はどうだ? 元気でやっているか? 何か困った事など無いか?
「!」 バッチリさ!

その時代の知識と芸術の代表格の二人の手紙だとしても見事の一言しかない。

我々はひとつの報告、ひとつの指示、ひとつの連絡にさえ頭を悩ませ汲々としている。
挙句の果てに「格調高く、それらしい文章で」などとお門違いの考えが頭を支配することも有る。
用途に合った文章ならともかく、背伸びした「それらしい」は、愚かに見える。

ダヴィンチ達の遣り取りから考えるべきは一目瞭然。
自分または相手にとって、何が必要か。もちろん、その文章に。だ。

私は昔から文章を書くことが好きだ。
「コラム」などを書く場合、以下のことを自然にやっているかも知れない。
先ずは平易な表現で読む者の意識(興味)を捕らえる。
次に文章表現に色や趣(おもむき)を持たせて読む者に共感(想像/創造)を生ませる。
最後に文章に感情(趣意)を持たせて、読む者を洗脳する(深共感させる)。
まあ、ざっとこんな感じ。←このように丁寧(文語)から、ラフ(普段使いの口語)に敢えて調子を変えるのも一手。

いずれにしても文章に眼を通す者が、確認の為ではなく、読み物として読んでしまうような工夫が私の文章を書くという事の主体である。
もちろん、それは私自身の物を書く事の一例であって、
それを以て文章の達人などとは言わない。

達人とは、自分を知った上で、相手を理解し、相手の事を考えられる者のことだと思う。
例えそれが文章を書くことだとしても。
報告も、指示も、案内も、連絡も。

ゆう

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